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鹿ケ谷事件について

 投稿者:Matsushima  投稿日:2017年 6月28日(水)17時09分35秒
  阿波の Matsushima と申します。
鎌倉初期に地元に配流されてきた土御門上皇について趣味で調べているものです。
鹿ケ谷事件のことを調べていて貴サイトに出逢いました。

さっそく、拙ブログの注釈欄にて紹介させていただきました。
今後も参考にさせていただくことがあると思います。
よろしくお願いします。

Matsushima Toru

https://blogs.yahoo.co.jp/matsushima_toru/36855515.html

 
 

(無題)

 投稿者:ハヤシ  投稿日:2016年 6月 6日(月)17時19分28秒
  我が家の伝承の燧城を検索したらここにたどりつきました、林一族と木曽義仲との関連がよくわかりました。
?
 

カウンタ変更

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2014年 6月14日(土)13時04分16秒
  ジオがサービスを変えてしまったので、とりあえずカウンタだけ、変更しました。
これでカウンタを変更するのは、サイト開設以来2度目になります。
数字は最初のカウンタ変更の40000からにしました。

なお、拙サイトの内容と関係のない2013年12月 5日付けの投稿を削除しました。
 

こたつ様へお返事

 投稿者:管理人:林六郎光明  投稿日:2012年 5月 2日(水)18時24分11秒
  >>中世加賀の群像Vol.9に出てくる佐良早松神社の画像をUp
>拝見しました。雪囲いでしょうか(゚.゚)。

もろ、雪囲いです(笑)
お寺さんもそうですが、神社の屋根って傾斜が急で、けっこう屋根の真下に屋根雪が落ちてきて、その量が半端ではないので、
こういう形にしているところ、平野部の神社でもけっこう多いです。

>1474年ごろの蓮如は、施物頼み、知識(坊主)頼み、三門徒派をせっせと叩いてる最中ですね(笑)。

蓮如が本願寺を継ぐまでは、三門徒派が強くて教勢が衰退していたこともあるのか、北陸でも、本願寺そのものも、教えがあまり整理されていないですね。
そのあたりから、蓮如の戦いが始まっていったんだろうと思います。

>>むしろ時代に流されて戦いにのめりこんでいった
>ここですが、当初は武士を門徒に組み込む考えではなかったんですよね(^_^;)。

蓮如の御文を見る限り、村落内の「坊主、年寄り、オトナ」と言っていますから、ムラの要の人物には注目しているようですけれど、そこに「武士」というのは
出てこないです。
当時は全国的にみても有力百姓と地侍などとが未分化なのですけれど、蓮如の目には「庶民」という括りでしか地域を考えていなかったかもしれません。

>中世に地獄草紙を大勢が見れたか疑問ですし、地獄絵が教訓として一般に浸透したのは、やっと江戸時代かなとも思います(^_^;)。

このあたり、実は私もじっくり考えてみたいところです。ご指摘、有り難うございますm(_ _)m

>研究の上にも研究の末、満を持して本願寺後継者として世に出て来るわけですから、父祖伝来の書物の類に既にあったんでしょう(笑)。

蓮如が本願寺を継ぐまで、本願寺には天台系の仏具や書籍などがかなりあったらしく、父祖伝来の書物などもかなり研究していたと蓮如は述べています。
そこで本願寺を継承してすぐに、本願寺にあった仏具や荘厳などを全部燃やして、阿弥陀信仰一本に統一したそうです。
確かに、当時の本願寺は天台青蓮院門跡の土地に間借りしているようなものでしたから、いろんなものがあったんだろうなと思います。
こういうところ、蓮如の信仰の剛毅さが出ていて、凄いなあと思っています。

>鎌倉時代は奈良(南都)仏教が様々に再興された時代でもあり、むしろ平安以前の仏教は鎌倉時代に掘り起こされて、その一端が伝わってる事が多いのかな~、なんて思う事が増えました。

これは、仰るとおりで、鎌倉時代は新仏教のみならず、旧仏教もかなり再興されています。
特に教義などが再構築されたりして、時代思潮にうまく合わせていると思います。

>三一権実論争を拙サイト「城主のたわごと」にアップしてます(^^ゞ。

ちょっと拝見しましたが、よくこれを取り上げられたなあと、吃驚しています。また、じっくり読ませていただきます。
 

(無題)

 投稿者:こたつ城主  投稿日:2012年 4月27日(金)15時03分35秒
  >中世加賀の群像Vol.9に出てくる佐良早松神社の画像をUp
拝見しました。雪囲いでしょうか(゚.゚)。この頃こたつは、こういう断熱ガラスに囲まれた縁側&ベランダ&温室に非常に強く憧れております!(笑)
ウチあたりだと、手賀沼の付近にこういう農家があります!観葉植物がいっぱい並べられてて、窓を開け放すと、即ベランダになる造りなのです!いいなー。

義仲勢の南下2(Vol.23)と、3(Vol.24)の途中まで拝見しました。……入善為直(^^;;)。

>軍記物の中には他にも似たような話もあるのですけれど、
>当時の武士の戦場でのモラルとはこういうものかと考えさせられる話です。
似てると言えば、敦盛と熊谷直実でしょうね(^^ゞ。結末がまるで違いますけどね……。
戦国期や江戸期と比べて、後三年の役における八幡太郎義家の裁断理論や、説話集の源頼光の話など、平安期の武士道(そんな言葉もまだありませんし、語られてるのは鎌倉時代以降でしょうが:笑)って、だいぶ違う物なんですよね~。。
頼朝以降も変化したのでしょうね。一番槍や一番手柄が武功には違いないんですが、どっちかと言うと死傷者への報償という赴きが強くなりますよね。

>「「進者往生極楽 退者無間地獄」旗について」について のお返事
蓮如以降~信長の時代までについては、各時代ごとに見て行く必要がありそうですね。
官知論は触りだけ拝見しました。寺院紹介も合わせて、もう少し読み進んだら、それこそ加賀一揆の掲示板に今度は書きましょうか(^^ゞ。1474年ごろの蓮如は、施物頼み、知識(坊主)頼み、三門徒派をせっせと叩いてる最中ですね(笑)。

>「お叱りの御書」以後、加賀においては光徳寺や専光寺も以前ほどの勢いは
>なくなり、代わって蓮如の子息たちによる「賀州三ヶ寺」が権威を持ち、
蓮如の頃から想像がつきます。「やっぱりそうなったか(^^ゞ)」という感じです。
武力一揆は起きたものの、本願寺の意図と違う事が示され、一時的な勢いは衰えたって事ですよね。なのに「門徒(百姓)持ちの国」の主力構成員が、信長時代まで衰える事無く継続されてるかのように勘違いされやすい……という事ですよね。
賀州三ヶ寺の件、お教えありがとうございました。蓮如の子供同志の対立ですね(^_^;)。

>対信長戦においても、最初から本願寺が主体的に動いて蜂起を促した
>と言うよりも、足利義昭等の誘いに応じたと
これは私もそう思います(^_^;)。

>むしろ時代に流されて戦いにのめりこんでいった
ここですが、当初は武士を門徒に組み込む考えではなかったんですよね(^_^;)。

地獄について。現代にリアリティ欠如の人が多いという話、一面では賛同ですが、中世に地獄草紙を大勢が見れたか疑問ですし、地獄絵が教訓として一般に浸透したのは、やっと江戸時代かなとも思います(^_^;)。
未来人が今の私達を見て「うわ!おぞましい。こんな風にだけはなりたくない!」と言う面を、我々は平然と持って生活してるでしょうし、未来でも、歴史に詳しい人は「昔はこれが当たり前だったんだよ」などと苦笑するでしょう(笑)。例えば、見た目の変化を調整する薬などが出来れば、妊娠や肥満・白髪も皺も、未来人が見れば「地獄絵」になり得る要素があるかもしれません(^_^;)。が、我々はそんな大した事と思ってませんよね(笑)。

なので「地獄」表現に対する激しい反応や攻撃姿勢は、単に「否定的」「排他的」な響きに対してなんだと思います。地獄は確かに日蓮が言ってます(笑)。そしてやはり日蓮も排斥されてますよね(^_^;)。なので、仰せの事を引用するなら、

>一神教的な考え方は、日本の宗教思潮においては非常に珍しい事例で、
>奈良時代以来連綿と続いてきた神仏習合や、目的によって異なる行法が
>並存する混然型の宗教思潮が当時としてはむしろ一般的
↑まさにこの一事に尽きると思います。これも、法然や親鸞の時点で発生したと言うより、蓮如に及んで、イキナリ「阿弥陀を祈れば、他の神仏を祈ったのと同じ効能がある」とか、「逆に他の神仏を祈るのは良くない」とか、さらに突っ込んだ言い方になってます(^^;)。。
ただ蓮如のオリジナルとは思いません。研究の上にも研究の末、満を持して本願寺後継者として世に出て来るわけですから、父祖伝来の書物の類に既にあったんでしょう(笑)。

時衆に関しては、時宗のみならず、鎌倉時代は奈良(南都)仏教が様々に再興された時代でもあり、むしろ平安以前の仏教は鎌倉時代に掘り起こされて、その一端が伝わってる事が多いのかな~、なんて思う事が増えました。
宣伝がましくて恐縮ですが、三一権実論争を拙サイト「城主のたわごと」にアップしてます(^^ゞ。ただ時宗とは全く関係ありません。あしからず(笑)。

http://kotatu.jp/

 

久しぶりに画像をUpしました

 投稿者:管理人:六郎光明  投稿日:2012年 4月15日(日)01時00分56秒
  中世加賀の群像Vol.9に出てくる佐良早松神社の画像をUpしました。
季節は秋ですね。当時、石川県の山間部は熊の出没情報がかなりあって、おっかなびっくり行ってきたものです。

http://www.geocities.jp/kaganosuke/

 

管理人もびっくりです

 投稿者:管理人:六郎光明  投稿日:2012年 4月 5日(木)21時07分3秒
  急に訪問カウンターが上がったなあ、なんて思っていたら、ウィキの参考にされていましたか。

>背番号9様
いらっしゃいませ。ご報告をいただいて有り難うございますm(_ _)m

一部のサイトで私の知らないうちに拙文がまるまる転載されていたりして、いささか驚いたことがありまして、
このようにご報告をいただけるというのは有難いものだと思います。

http://www.geocities.jp/kaganosuke/

 

無礼講の記述に関して

 投稿者:背番号9  投稿日:2012年 4月 4日(水)20時04分11秒
  ウィキペディアの無礼講の説明として、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%A4%BC%E8%AC%9B

本サイトを情報元として利用いたしました。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/real19.html

勝手ながらご報告まで。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E8%83%8C%E7%95%AA%E5%8F%B7%EF%BC%99

 

「「進者往生極楽 退者無間地獄」旗について」について のお返事

 投稿者:管理人:六郎光明  投稿日:2012年 3月31日(土)19時14分36秒
  こちらの掲示板を使われることについては全然かまいませんので、ご遠慮なくお書きください(笑)

>当然、寺や地侍、長衆などに組織として率いられていたはずで、「南無阿弥陀仏」の旗1つで動くような烏合の衆ではなかったはずです。

加賀一向一揆の場合、時代によって幾つかに分けて考えた方が良いと思っていて、対信長戦においても一向一揆の蜂起事例から見ると、かなり特殊な性質があります。
一つの事例として長享2年の高尾城合戦をあげてみますと、そもそもあれは土民一揆つまり土一揆なのか、それとも国衆に率いられた国一揆と見るべきなのか、という話があって、土一揆の場合、基本的に徳政令を要求した蜂起だったために一種の経済一揆と規定されていて、高尾城合戦の場合、これには該当しません。
官知論などを読む限り、一揆を主導しているのは外様系の光徳寺や専光寺と在地の土豪たちで、それを考えるとかなり国一揆に近いものがあります。
その意味で、高尾城合戦を民衆蜂起の勝利という単純な考え方は、完全に間違っていると思っています。
それで高尾城合戦後、蓮如が専光寺などに咎めだてる「お叱りの御書」を下しており、高尾城合戦は蓮如・本願寺とは全く別に行われたものであると言えます。

「お叱りの御書」以後、加賀においては光徳寺や専光寺も以前ほどの勢いはなくなり、代わって蓮如の子息たちによる「賀州三ヶ寺」が権威を持ち、以後しばらくは彼らによる加賀各地の進退が行われます。
その後、越前の和田本覚寺と藤島超勝寺が加賀に亡命してきて賀州三ヶ寺と対立、越前側は本願寺を味方につけて享禄の錯乱を勝ち抜き、賀州三ヶ寺は没落します。
賀州三ヶ寺側の門徒は、享禄の錯乱後、ほとんどが本願寺の直参門徒という形になり、以後、加賀各地の進退は本願寺が直接担うことになりました。
これがしばらく続いた後に、金沢に「御堂」が建立され、この「金沢御堂」が加賀の政治と門徒の中心になっていったのだろうと考えられています。
参考:http://kagaikkouikki.web.fc2.com/ij.html

以上の経緯を見てみると、本願寺が加賀を直接掌握していったのは、かなり限られた期間だけで、基本的に加賀は本願寺の間接統治下にあると言えます。
確かに蓮如以後、細川政元の要請による一揆の蜂起は見られるものの、これも政元の要請に応じたものであって、本願寺自身による蜂起の指令というのではありません。
対信長戦においても、最初から本願寺が主体的に動いて蜂起を促したと言うよりも、足利義昭等の誘いに応じたと考えた方が良いと思います。
だからと言って、本願寺は宗教勢力だったから本来平和的な勢力だったなどと言う心算はなく、むしろ時代に流されて戦いにのめりこんでいったと考えるべきでしょう。
この点を、ある著名な一向一揆研究者に訊ねたところ、「本願寺はけっこう行き当たりばったりです。」と答えられたことがあり、やはりそうか、と思いました。

以上のような点を考えてみると、こたつ城主様の
>本願寺の主導とも思えない……
という推理は非常に妥当だと思いますし、そういう一向一揆の歴史をあまりご存じないはずなのに、そういう心証を得られた慧眼に大変驚いています。


地獄の話にいきますと、私自身が宗教を苦手としているので、はっきりしたことは言えませんが、歴史的に考えると、すこしはお答えできるかな、と思います。
まず当時は「六道輪廻」が当たり前に信じられていた時代で、人間は天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄を行き来するものであり、その最下層が地獄である、と。
蓮如の門徒向けの御文には、あまり地獄のことは書かれておらず、もっぱら極楽往生の勧めばかりです。
その中で地獄に言及しているのは、僧侶を誹謗攻撃したら無間地獄に行く、とかなり限定的に使っています。
これは当時の門徒が、あまりに他宗を誹謗するのをたしなめるために使ったのだろうと思いますし、他宗誹謗がそのまま布教の形だった日蓮を除く他の宗祖も、おそらくそれほど地獄については語っていないと思います。

それで個人的には、極楽の反対として地獄があるのではなく、地獄を含めた六道輪廻から脱出するものが極楽往生というものではないか、と思っています。
確かに地獄草紙とか六道絵とか絵画資料もあるものの、そこの造形は例えば餓鬼の場合、1970年代などに多く報道された難民の極端な栄養失調の姿とそっくりで、河原などに捨てられた死体なども含めて、当時の人々は現世こそが六道輪廻そのものであり、それは決して想像だけの産物ではなかったろうということです。
現代人は宗教されてる人を中心に、簡単に地獄地獄と言っていますが、現代の現実に無いものだから想像だけで簡単に言われているだけで、そういう厳しい現実が何百年も続いていた時代の人々とは根本的に考え方が違うと思っていて、そのあたり、
>自分の後生を祈るということについて、中世の人々は現代人が考えるよりもはるかに真剣だったと考えています。
という私の主張に繋がっていきます。

念仏の場合は、もともと阿弥陀さんが全ての衆生を救うぞという誓願があり、これを信じる限り必ず極楽往生できるという点において、極楽に行くことが決定しており、これを信じるということは、他の修行などは必要ないということになって、それが他宗の誹謗に繋がり、比叡山の山法師などに攻撃される理由になっています。
このような一神教的な考え方は、日本の宗教思潮においては非常に珍しい事例で、奈良時代以来連綿と続いてきた神仏習合や、目的によって異なる行法が並存する混然型の宗教思潮が当時としてはむしろ一般的であって、要は、救ってくれるなら何でもいい、ということなのだと思います。

そのような社会の中で、一遍は念仏と賦算を敢行したわけで、一般民衆に直接訴えかけたという点において、法然や親鸞とは行動のスケールが桁違いに大きく、社会への影響も強かったはずと思っています。
それも含めて私も一遍には強烈なカリスマ性があったのだろうと思いますし、だからこそ一遍は時衆を組織化する必要もなかったし、そのため彼の死後にこの集団がバラバラになりかけたときに他阿真教が初めて組織化を行ったというのも、一遍のカリスマ性にのみ収斂されていた集団が独立した「時衆」となっていったのだと思います。

http://www.geocities.jp/kaganosuke/

 

「「進者往生極楽 退者無間地獄」旗について」について

 投稿者:こたつ城主  投稿日:2012年 3月27日(火)18時01分24秒
  では、早速(^^ゞ。
「序曲」「加賀一向一揆編」も所々散見させて頂き、蓮如に破門されたり、一揆を指導した感じにも思える人名も出てましたが、特に目に止まったのは、「資料室」の「「進者往生極楽 退者無間地獄」旗について」でした。
畠山様の所でも出た話の中でも、疑問として浮上した、ちょうど核の部分と思える文章があったので……↓
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
しかしこのイメージは、歴史的事件としての一向一揆としてみたとき、少々違和感があります。
戦いに臨む場合の一向一揆は、決して少ない人数の軍ではなく、それこそ少なく見積もっても何千という大軍でした。
当然、寺や地侍、長衆などに組織として率いられていたはずで、「南無阿弥陀仏」の旗1つで動くような烏合の衆ではなかったはずです。
ただ、彼ら一向一揆をイコール本願寺の正規軍と考える見方も、少し違うような気がします。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――

これが私の意見と全く同じなんです(笑)。私も、一揆に動員される人数の多さについては、一回ごとに解散だったにせよ、何か組織立った動きを感じます(^_^;)。
と同時に、本願寺の主導とも思えない……という意味において、まさに一致する点です。

この後に続く、織田軍と戦った折も虐殺であって、戦った形跡が見られないという話も納得のいくもので、私も単なる虐殺だったんじゃないかと思う所があります(^_^;)。

次の(主題でもある)「地獄」についてですが、私の知る限り、これを表現として用いる者は、信者には居ても、法然や親鸞自身が表現に用いて説いた、というハッキリした記憶が無いんです(^_^;)。(単に読み落としてるだけかもしれませんが(^^;))、
ところが、蓮如が弟子や本願寺以外の派をたしなめる時はあったようです。宗のトップが積極的に「~すると地獄に墜ちるゾ」と脅すのは、蓮如に初めて見た気がします(^_^;)。

そもそも浄土に行くために念仏に専念するのですから、その反対語的な「地獄」が引きあいに出て来ても、「非常に不思議」とまでは言えないですが(笑)、それを言うと他の宗派(特に比叡山)との間に軋轢が生じやすいので、宗派トップの口から出た、とはハッキリ記されなかっただけなのかもしれませんが……どうでしょう(^_^;)?
何しろ蓮如の時代になると、地獄概念が当然となってしまったという事か、或いは蓮如が、それまでの姿勢を改めて、もはや積極的に用いる事にしたのか……。何か蓮如より前にも、地獄表現が用いられた例など判ると助かるんですが……(^_^;)。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
一向一揆の場合は、後生のためには死んでも構わないという極端な例ですけれど、自分の後生を祈るということについて、中世の人々は現代人が考えるよりもはるかに真剣だったと考えています。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――

これなんですが、どうも一向一揆に特有の考え方と言うより、日本が国教と定める天台宗が「現世利益」を基本としている事が、そもそもの原因のようにも思います。
勿論その分、社会事業(慈善事業や、橋や道路を作る事など)も宗教の果たす役割に含まれ、理想としては素晴らしいのですが、法然が専修念仏を始めたのも、浄土へいくための修行(念仏)も修行の一つだが、それだけが修行ではない、という立場ゆえに、やるべきと定めた項目があまりにも多過ぎて、過剰に負担なのが原因の一つだと思います(^_^;)。

また「現世利益」を大前提とする以上、死は美化されず、ハッキリそうとは示しませんが、要するに自殺を禁じる事になり、その自殺を食い止める手段に、わかりやすく「地獄に墜ちる」という通念があったのでは……とも思います。
しかし自殺したい人にとっては、唯一それを受け入れる思想(南無阿弥陀仏とさえ唱えれば、地獄に落ちずに済む)だから、爆発的に念仏がウケた、という所もあるような気がします。時衆が広がると、一遍の元に遣って来た大勢の民衆は、次々と集団自殺を行います(^^;)。。

というわけで、スゴイ長くなりましたが(^_^;)、一遍本人については、何らか霊能力的な術(どう言ったらいいのか……何しろ科学の枠外:笑)の持ち主だったとしか言いようがないのは事実なんですが、その彼を取り巻いてた集団にそうした能力があったわけではなく、あの念仏踊も、喜びを表すために始まったそうです。

長くなりました(^_^;)。

http://kotatu.jp/

 

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